インプット -アルツハイマー型認知症と発声改善-

2026.03.31

今回は、クライアントさんの実例についてお話しします。
現在60代半ばの、ある歌手の方のケースです。

彼女は音大受験を目指して準備を進めていた頃、医療機関で声帯結節を指摘されました。進路を変更することが難しい時期にあったこともあり、そのまま受験を決意。以後、声楽の道を歩み続けることになります。海外への留学経験も長く、演奏活動と並行して音大の教員としても長年ご活躍されてきました。

60歳頃、彼女は小さな結節を手術できるドクターに出会い、手術を受ける決断をされます。
手術自体は無事に成功しました。
しかしその後、声は逆に出にくくなりました。長年、結節のある状態で発声してきたため、形が変わった声帯に適応することが難しく、話し声にも困る状態に陥ったのです。

彼女が初めてAkasaka Voice Lab.に来られたのは2022年秋のこと。
私などが・・と躊躇する気持ちがありましたが、「この方のお人柄であれば、二人三脚で取り組んでいけるかもしれない」と感じ、レッスンをお引き受けすることにしました。

主な症状は、

・首や口腔内に過度な力が入り、自由に操作できない
・声の揺れ
・音程の上げづらさ、高音の出しづらさ
・持久力が短い
・響きが息混じりになる
・柔らかい音質や弱音が出しづらい
・母音による響きの差が生じる
・ハミング、スタッカートがやりづらい、「つまり」症状が出る
・早いパッセージの各音の粒をクリアにすることができない

といったものでした。

それから彼女は2週間に一度、レッスンに訪れました。
彼女の声や身体の使い方を拝見しながら、私自身が経験の中から得てきたことをもとに気づきや着想をお伝えすると、彼女はそれを疑うことなく、淡々と実行されました。その場で声に変化が現れることも少なくなく、彼女は「こんな声はこれまで出たことがない」と、いつも驚きと喜びと感謝を伝えてくださいました。

話し声は比較的早い段階で改善しましたが、歌声に関する課題は長年の蓄積によるものでもあり、自由さを取り戻すには時間がかかることは想像に難しくありませんでした。
それでも彼女は、そのことに過度に反応することなく、ただ淡々と練習を続けていきます。少しずつ自由になっていく声を純粋に喜び、そのルーティンを崩すことはありませんでした。

およそ1ヶ月後、脱力した状態で声を出せることを実感され、少しずつ少しずつ、声を出すことが楽に感じるようになってゆきました。3ヶ月後には、「歌うことが楽しいと感じた」とお話くださり、私も嬉しくなりました。その後も調子の波が出現するものの、機能性発声障害様の症状は徐々に改善していきました。

具体的には、力みが抜け、声の「つまり」が減少し、音程が定まるようになり、音量も十分に鳴るようになりました。揺れについても、意識的に修正・調整することができるまでになりました。

そして、翌年2023年冬のコンサートでは、歌いやすくなったことを本番においても実感されるに至り、さらに2024年の公演では、より満足感を得る結果をおさめられました。


若い頃よりも自由に声が出ることに大きな喜びを感じていた彼女ですが、2024年夏頃から「物忘れ」に困っている、と口にされるようになりました。
年相応なのか、それとも別の要因なのか——。

改善の様子が見られなかったため、院長の紹介で専門外来を受診。検査の結果、アルツハイマー型認知症の初期の状態であることが分かりました。

「せっかく自由に歌えるようになってきたのに、こんなことになるなんて」

時折こぼれるその言葉を、私はただ静かにお聴きすることしかできませんでした。


それからも、彼女は変わらず2週間に一度、レッスンに通い続けました。
短期記憶への影響は、定期的にお会いする私にとっても変化として感じられるものでした。
一方で、歌声は2週間ごとに確実に自由さを増していきます。その流れは変わることがありませんでした。

私は不思議に思い、どのように練習されているのかをお尋ねしました。

「レッスンの音源を流しながら、レッスンを受けている時と同じように練習しています。毎日、それを繰り返しています。覚えていられないので…」


私は脳の専門家ではないため、臨床的なことを語ることはできません。
ただ、「繰り返すこと」による脳の働きについて、ひとつの実例を目の当たりにし、さまざまな思考が巡ります。

音楽という体験が特別な形で記憶に残る可能性。
また、発声の調整は身体動作の学習であり、単なる知識のインプットによる記憶とは異なるという側面。

さらに、彼女の資質も関係しているのではないか、ということも感じます。

彼女は、淡々と、シンプルに、練習を繰り返し積み重ねることのできる方です。そして、声の変化に気づき、喜び、「ありがたい」と感じる温かさでご自身を包んでいらっしゃる。
浮かんでくる思考を過度に展開させることなく、目の前のことに適度な集中を向ける。その在り方が、今も彼女を発展させ続けているように見えます。


彼女は現在も、舞台に立ち続けることを選択されています。
直近の本番も、暗譜で演奏されました。

その背景に、どれほどの繰り返しがあったことでしょう。


彼女のエピソードは、多くのクライアントの励みと勇気につながっています。

ただ存在しているだけで、周囲の心を浄化するような人から放たれる声が、これからもより自由に響いていきますように。
そして、その歩みに伴走させていただける「今」に、心から感謝しています。

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